万博ジュニアサッカースクール

北に陽を目指して「R」

2021年11月10日

背番号17 昭和52年  夏  インターバルは終わらず

「負けた原因は走り負けや。暑いから走れんではサッカーにならん」とインターハイで負けた筆者たちをグラウンドで待っていたのは、10周競争、3分間走、 そしてインターバルのフルコースでした。練習が再開された初日に行われたインターバルは、野々村監督が笛とストップウォッチを持ってコーナー付近で椅子に座り、直接笛を吹くという最も好ましくないパターンでした。

 

50mを8秒以内で走って30秒で戻ってくる。これを全員が10本入るまで走る。誰か一人でも遅れると、その走った本数はカウントされません。筆者たちは、「あかんわ。監督があそこに座ったら終われへんぞ」と経験上、 誰もが知っていました。走った本数にして、実に約200本。(正確な本数は多すぎて不明) おそらく、北陽の歴史の中でも最も多い本数を記録しています。時間にして、約2時間のダッシュを練習最後のメニューとして走り続けていました。結果、その日は全員がフラフラになって10本入れないまま練習終了。

 

翌日の練習開始から「お前らまだ10本入ってないやないか。昨日の続きからや」また50本近くのインターバルを走ってようやくボールを使った練習に入ったことを覚えています。今と違って練習中に給水や休憩など殆どない時代に本当によく走ったと思います。

 

当時の北陽に強さの秘密などありません。技術や戦術に飛び抜けていた訳でもありません。「俺らはやってきたことが違う。普通の高校に絶対負ける訳にいかん」 との蓄積された思いが、試合開始とともに解き放されて、相手チームを圧倒したのだと思っています。また、猛練習に生き残った選手たちが集まり、チームの雰囲気を醸し出し、それらが試合前から相手高校を無言で威圧していました。

 

夏休みが終わり9月に入ると、今は無き大阪球場にペレ、ベッケンバウアー、キナーリアといった各国の元代表選手を揃えた、北米サッカーリーグを代表するチーム「ニューヨーク・コスモス」がやって来ました。筆者たちは、レフトスタンドから「おっ。ペレや。ベッケンバウアーもかっこええ」 と初めて生で見るスーパースターたちに歓声を上げたものでした。

 

またこの日は、前座試合として大阪府高校選抜と帝京高校の試合が組まれており、北陽からはDFの重田が大阪府高校選抜として参加。

対する帝京高校は、8月のインターハイに優勝候補の筆頭として出場しており、帝京がどんなサッカーをするのか、どれだけ強いのか、非常に興味と関心を持った試合でした。

終わって見れば、当時、超高校級と言われる選手をずらりと揃えていた帝京の圧勝。4対1位のスコアだったと記憶しています。

この時、筆者たちは初めて帝京の試合を観戦したのですが、まさかこの4カ月後に国立競技場で全国高校サッカー選手権の決勝進出をかけて戦うことになろうとは、夢にも思っていませんでした。2007年5月作成。(背番号18につづく)