万博ジュニアサッカースクール

北に陽を目指して「R」

2021年11月10日

背番号8 昭和50年インターハイ 選手権

黄色い新幹線は、鉄道ファンの間で 「ドクターイエロー」 と呼ばれており、夜中に人知れず走行し、線路や架線の状態などを検査しながら走る試験用車両です。その性格上、昼間の走行は殆どなく、目撃できるチャンスも僅かしかありませんが、北陽のサッカー部では実に多くの目撃情報が寄せられています。理由は簡単です。僅かなチャンスも逃さず、グラウンドにずっと出ている選手たちの粘り勝ちなのです。

 

昭和50年、夏の合宿を終えた生存者、もとい選手たちは、インターハイの開催地、山梨県に向かって出発。1年生の筆者は大阪で居残り練習。山梨へ向かう選手たちを乗せた新幹線が、グラウンドの横を通過する時間に合わせ、居残り組全員でグラウンドに人文字で 「V」 を作りました。新幹線が通過する僅かな時間でしたが、勝利を信じて思い切り手を振って見送った筆者たちに、新幹線の窓に張りつくようにして手を振り返してくれた先輩たちの姿は今でも覚えています。

残念ながらインターハイは、島原商業に惜敗。大会は地元、韮崎高校が初優勝を飾り幕を閉じました。北陽が目指すのは全国優勝のみ。

インターハイ終了後、グラウンドでは再び厳しい練習が再開されました。夏休みの期間は恐ろしいことにまだまだたっぷり残っています。

 

「サッカーで走り負けしとったら話にならん。この暑い時に走り込んだチームが勝つんや」 目標はただひとつ、全国高校サッカー選手権大会優勝です。インターハイには出場をしているのですから、ここはなんとしても勝って、先ず大阪代表として選手権出場を果たしたいところです。夏から秋へ季節が移るとともに、選手権の大阪府予選が各会場で開催され、北陽は前評判通りの強さを発揮し、決勝戦まで進みました。

 

筆者たち1年生は、選手権出場を信じており、予選の試合が3年生の最後の試合とならないように、練習中は大きな声を出し、チームの雰囲気を盛り上げることを第一に考えました。昭和50年11月。決勝戦当日の天候は雨。サッカー部員は土曜日の2時間目の授業が終わるとクラスメイトの声援を受けながら学校を出発。当時、大阪府の予選決勝は、本町のうつぼ公園サッカー場で行われており、なんといってもTV中継やスタンドを埋める両校の応援などもあり、選手たちの緊張感はより一層高まります。

 

決勝戦の相手は、当時、急速に力をつけてきた摂津高校。練習試合では、北陽が摂津に負けた記憶はなく、戦前の予想では北陽有利。しかし、決勝戦は特別な試合です。自分たちの力を出し切れず、試合は1対1の引き分けでタイムアップ。引き続き行われたPK戦で敗退。選手権出場の夢は消えてなくなり、3年生の北陽でのサッカーが終わりました。あれだけ夏の暑い時からがんばったのに、なんというあっけない幕切れでしょうか。筆者はこの時、生まれて初めてサッカーを通じて涙を流しました。

「選手権に出たい」運や希望だけで勝負に勝てるものではありません。北陽がこの決勝戦の舞台に戻って来るためには、それから2年という歳月が必要でした。2006年12月作成。(背番号9につづく)

 

※筆者追記・筆者が1年生の時にヤンマーディーゼルが練習試合を行うために北陽のグラウンドにきてくれた時は、驚きました。日本を代表するストライカー釜本氏をはじめ、ベストに近いメンバーでの対戦です。釜本選手の放った右上隅へのループシュートは今でも覚えています。