万博ジュニアサッカースクール

北に陽を目指して「R」

2021年11月10日

背番号6 昭和50年 初夏から盛夏

「北陽高校サッカー部、生存者のみなさん。こんにちは」OB会で必ず交わされる挨拶です。 その度に、OB達は互いの顔を見合せ、自分たちの幸運と命の大切さを知り、時代を懐かしみ、強靭な身体を授けてくれた両親と、サッカーの神様に感謝することを忘れません。生存者たちの共通点は、本当によく走った。打たれ強く負けず嫌い。精神・体力ともにタフ。最後は開き直れる大胆さ。といった点が特長として挙げられます。

 

さて、ここからは本当にあった恐ろしい昭和の実話です。

季節が夏に向かい暑さが増してくると、練習の辛さに耐えられず、多くの1年生が辞めていきました。1年生が辞めていく時期には、大きく分けて3段階あります。入部して4月中にすぐ辞める第1段階。暑さにより練習がよりしんどくなる6月頃が第2段階。そして、期末試験が終わり、暑さもピークとなる7月下旬からの合宿と夏休み期間が第3段階。暑く長いハードな夏を乗り越えるかどうかが勝負です。

 

この夏、北陽は、インターハイの大阪府予選で優勝。8月に山梨県で開催される本大会出場権を勝ち取りました。

野々村監督は「山梨には暑い中でも走れる者。しんどい時にがんばれる者しか連れていかん」と宣言。選手たちは、7月末の試験休みに行われるこの合宿で、生き残る必要があります。トラップ(罠)はあちこちに潜んでいます。「ドツボ」を踏んだら アウト。山梨県には連れて行ってもらえません。

合宿参加メンバーは、3~2年生は全員。1年生の中からは上手な選手が数名参加で全体で25名前後。

 

1年生も日帰りで合宿の練習に参加し、朝から夕方までしんどい練習が当然待っていましたが、練習後も監督やOB、そして先輩方と6泊7日も寝食を共にすることを考えると、「1年で合宿に参加する奴は大変やな」と筆者は思っていました。

練習がしんどくても、やはり自宅に帰れるということは天国です。 精神的、肉体的な疲労の回復度が全然違います。

当初、筆者は日帰り参加組の予定でしたが、 合宿参加候補の1年生が、期末試験で欠点を取り補修授業。その代わりになんと筆者は繰り上げ当選となって、合宿参加組に。サッカーの神様のいたずらでしょうか。事前に心の準備ができていた先輩方とは違って、参加の決定は合宿前日の夕方でした。「はい。わかりました」と返事をしたものの、この時ほど期末試験の結果を恨み、自分の頭の良さを悔やんだことはありませんでした。

 

合宿期間は7月20日から6泊7日。宿泊場所は北陽高校体育館。グラウンド全面と体育館の使用は24時間OK。体育館に食堂はありましたが、照明・冷房・風呂・洗濯設備・自販機などは一切なし。 (シャワーは2台のみ)宿泊は板の間の合宿所。

3年~1年生まで全員で暑い中、大部屋に煎餅布団を敷いて寝るという戦慄が走る環境の中で、鋼鉄の精神力と無限の体力を叩き込もうというものでした。 いよいよ、インターハイに向けての合宿が始まりました。〔2006年11月作成〕

※筆者追記・自分では中学時代、勉強がよくできる方とは思っていませんでした。後日、鈴木先生から「猪井は入試の成績8番やったんや」と教えていただき驚きました。結果、1年生の時は、学校から指名されて委員長を拝命。周りを見ると「アン・アップル」の意味が分からん奴もいる。「なるほど、これやったら俺の8番もありか。(背番号7につづく)