万博ジュニアサッカースクール

北に陽を目指して「R」

2021年11月10日

背番号19 昭和53年 冬 選手権 東京

大阪代表となった筆者たちの目標はひとつ。「選手権優勝」 です。しかし、サッカーの神様は残酷でいたずら好きでした。代表に決定してからの練習試合では、西野田高校に負けて野々村監督の怒りが爆発。「負けたら走るのは当たり前やないか」 と久々に80本越えのインターバル。

 

筆者は、12月に入ってからの紅白戦で2年生のK井君と中盤で衝突。ガーンと当たった瞬間から、右膝に衝撃を受けて一歩も動けず。紅白戦は足を引きずって交代。

右膝内側じん帯損傷。ギプスで固定し、まともに歩ける状態ではなく、選手権の本大会までにケガが完治する見込みも全くなし。

 

チームは12月27日に東京に向けて出発。大阪に残った選手全員で、グラウンドから選手たちの乗った新幹線に向かって手を振り、声援を送ったのは言うまでもありません。筆者は選手権の大会期間中は、大阪に残って1・2年生の練習を見ることになっていたのですが、野々村監督から「お前は30日に東京に来い。高校生活最後の大会や。走れんかってもチームを盛り立ててやれ。 できることはたくさんあるはずや」 との言葉で生まれて初めての上京。

 

東京での宿泊先「秀英館」は 、「日本サッカーの父」と言われたD.クラマー氏が初めて来日した時に、当時の日本代表と、最初に寝食をともにした歴史ある旅館で、東大の赤門の前に位置していました。 従って、東京でのチーム練習は、東大グラウンドで連日行われており、北陽からの学力では、絶対東大に入れませんが、選手権のおかげでこうして東大に入ることができました。

大会直前なのですが、連日ハードな練習が行われていました。「大会前はセットプレーやフォーメーション的な練習が普通やろ。なんでダイビングヘッドの練習するんやろ」と関東ローム層の黒土で汚れた練習着と、選手たちの戸惑ったような目がそれを物語っていました。

 

昭和53年1月1日。国立競技場で天皇杯の決勝が行われ三菱重工が優勝。筆者たちもいよいよ決戦モードに突入です。1回戦は1月3日。相手校は静岡県代表の浜名高校。4年前、長居競技場で初優勝を飾った時の相手が静岡県代表の藤枝東高校。今回2回目の出場で、またしても静岡県代表との対戦ですから不思議な因縁を感じます。

 

当時の静岡県は、埼玉県と同じく高校サッカー界の両雄。県内のどの高校が出場してきても優勝候補の筆頭でした。特に静岡勢は、5年連続決勝で敗れており、前年の第55回大会(昭和51年度)では、静岡学園がドリブルで崩していく素晴らしいサッカーを披露するも、決勝戦で浦和南に5-4というスコアで惜敗。「今大会こそは」 と雪辱に燃えているはずです。決戦の日、1月3日の朝。足元が寒いので目を覚すといつもと様子が違います。外が静かです。「おい。雪降ってるぞ。うわっ、すごい積もってるぞ」 この日、東京は7年ぶりの雪の正月となり、景色は前日までとは打って変わり、目に映る全てが白銀の世界へと様変わりしていました。2007年7月作成。(背番号20につづく)