万博ジュニアサッカースクール

北に陽を目指して「R」

2021年11月10日

背番号10 昭和51年 春から夏 3年生の引退

日本代表のオシム監督は、ジェフ千葉時代にフルコートで3対3を行い、選手の走力と精神力を鍛えていましたが、昭和の時代、すでに北陽では、縦100mのフルコートで1対1が行われていました。 相手を抜きゴールライン上にボールを静止すると1点なのですが、抜いてもゴールラインは遙か先。抜いた選手はゴールラインを目指してドリブル。抜かれた選手は必死に追いすがり走り合いに。ゴールライン上にボールを静止する瞬間を狙って強烈なスライディングタックル。ボールを静止させようとしていた選手は、ボールごとなぎ倒されていました。

 

1対1の勝負は 「やられる前に行け。やられたらやり返せ」「あかんかっても、すべらんかい」と意地と意地とがぶつかる果たし合いのような練習でした。先輩も後輩も関係ありません。筆者も先輩にこそ遠慮せずに思いっきりタックルを仕掛けました。

試合中の1対1は、スライディングタックルをせずに相手からボールを奪うことが大切ですが、この練習は互いのスライディングタックルの恐怖心を取り除き、意地と根性と走力を磨いていた昭和の練習風景として今でも覚えています。

 

新チームは、新人戦で 「今年の北陽は弱い」と言われるなか、和歌山県で開催される近畿大会の出場権を獲得しましたが、1回戦には勝利したものの2回戦で敗退し終了。春休みの徳島遠征が終わると筆者たちも2年生に進級し、4月からは新1年生も加わり新年度がスター ト。5月に入るとインターハイの大阪府予選が始まりましたが、ここでも結果を残せずに予選敗退。

残る目標は選手権の大阪府予選ですが、インターハイの予選で早々に負けてしまったため、予選は1回戦からのノーシード。当時のチームで試合に出ていた3年生は3~4名で、チームは筆者たち2年生が主力。3年が主体の他校のチームと比較しても、決して強いとは言えませんでした。 選手権予選は、負ければ3年生が即引退となる崖っぷちの最後の公式戦。北陽高校のグラウンドで行われた選手権予選の何回戦かは忘れてしまいましたが、試合は空回りし悪循環。 得点が入らず引き分け後のPK戦で敗退。

 

まだ夏の終わりだとういうのに3年生には早すぎる引退が訪れました。 負けて引退していく3年生を見ることは、とても辛くて悲しいことです。 大阪で優勝して全国大 会へ出場するためにはまだまだ力不足。 弱いから負けたのです。

チームは夏の終わりに早くも筆者たち2年生が最上級生となる新チームに移行。

筆者たちは高校生として最後となる新人戦、近畿大会、インターハイ、そして選手権大会を目指してスタートしました。もう敗退は決して許されません。2007年1月作成。(背番号11につづく)