万博ジュニアサッカースクール

北に陽を目指して「R」

2021年11月10日

背番号4 大阪代表になれる高校へ 

そんな昭和の時代、全国高校サッカー選手権での大阪代表の活躍は、初芝高校が第47回大会(昭和43年度)優勝、48回大会(同44年度)準優勝、49回大会(同45年度)3位の活躍を見せます。第51回大会 (同47年度) は、関西大倉高校が3位。そして、第52回大会 (同48年度)では、北陽高校が「初出場初優勝」の偉業を成し遂げます。

 

決勝戦は、北陽と藤枝東 (静岡) との対戦、藤枝東の「技」を北陽が「闘魂と空中戦」で制して2対1の勝利。その後は、筆者たちの時代、第56回大会 (同52年度首都圏開催) で北陽高校が3位。以降、昭和の時代では、大阪代表のそれ以上の活躍はありません。(※他に北陽高校はインターハイで優勝1回・準優勝1回・3位1回を誇る)

 

現在では、少年サッカーからジュニアユース、ユースなどのクラブチームもたくさんあり、選択肢が増えましたが、昭和の中学生は、中学から高校へ進学して「全国高校サッカー選手権に出たい」と誰もが思ったものでした。

中学3年になり進路を決める際、当時の筆者の担任の先生は、自宅まで何度も足を運んでいただき、地元の公立高校への進学を進めてくれましたが、すでに中学2年から「北陽へ行ってサッカーする」と宣言していた筆者の気持ちを変えることはできません。

 

今思えば「中学行ったらサッカーやれと進めてくれた父。そして「中2の年に北陽が優勝したこと」もしこの優勝が、中3の年でしたら受験生のスケジュールから考えて、公立高校を受験していたかも知れません。また、「自宅から長居競技場が近くにあったこと。遠かったら試合を見に行ってなかったかも知れません」そして目の前で、「北陽の優勝を見た」からこそ、「これや!」と自分の進む道が決まったと思っています。

 

今でも中学時代の体育の先生の言葉を覚えています。「おまえ、ほんまに北陽行くんか。北陽の練習はグラウンドで死ぬぞ」「先生なに言うてんの。大丈夫や」と自分では腹を括っていたつもりなのでしたが、筆者が3年間で学び経験したことは、自身の運命を大きく変えて、その後の人生に多大な影響を及ぼすこととなりました。2006年11作成(背番号5につづく)